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pluralities / my here and now for 2 actors and video

​作曲:黒田 崇宏
俳優/パフォーマー:小飯塚 貴世江、櫻井 麻樹

​スペシャルサンクス:後藤 天

​はじめに。

この作品を制作するうえで自分の持つ複数の属性と、目に見える/ない壁・障壁や距離感について考えていました。私という個人としての視点と経験、そしてそれらに加えて複数性という概念がこの作品のベースとなっていると言えるでしょう。

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コンセプトの起点

作品のコンセプトを考えるうえで、ジャマイカの作家・詩人・研究者であるパメラ・モーデカイ(Pamela Mordecai)の、デレック・ウォルコット(Derek Walcott)の自伝的長詩『Another Life』を分析した、1987年発表の文学批評論文"A Crystal of Ambiguities: Metaphors for Creativity and the Art of Writing in Derek Walcott's Another Life"において提示された、「プリズム的 -意識、 -ヴィジョン」(prismatic –consciousness, -vision)という彼女独自の概念を知ったことが起点となっています。この概念は「経験を時として解決されない複数性の中で知覚し解釈する傾向」として定義され、カリブ海地域の人々の特有の認知様式を表現しています。そして:

・論理的・線形的な認識方法とは異なる
・弁証法的でもない
・多面性と包摂性を併せ持つ知覚のあり方

を特徴とします。これは、アフリカから奴隷として連行された人々とその子孫が、強制された支配者文化と言語を受容しつつも、自らの言語・習慣・信仰を守り、混交(クレオライゼーション*)を通じて新たな共同体とアイデンティティを構築してきた歴史的背景に根ざしています。カリブ海文学・思想研究者の中村達は、その著書『私が諸島である カリブ海思想入門』(2023年、書肆侃侃房)の中で、「カリブ海における異なった文化的、人種的背景を持った人々が、クレオライゼーションの過程で互いに出会う中でその衝撃を耐え、新しい共同体へと自分たちを変えてゆくことのできる多彩な意識である。」としてこの概念を解説しています。
 私は日本で生まれ育ったゆえに、カリブ海の島々に住む人々の経験を完璧に理解することは不可能ですし、カリブ海文学とポストコロニアリズムに基づく彼女のこの概念をそのまま用いることはできません。しかし、この概念は自分が恐らく無意識に感じていた経験と響き合うものがありました。これに触れたことで自分の経験や立ち位置についての認識の仕方がリビルドされた実感があります。そこから、今回の作品のコンセプトが形作られていきました。この概念を私自身の経験や持っている複数の属性に重ね合わせることで表現を模索します。本作品はそのオリジナルの思想に敬意を払い、その政治的・文化的背景を軽視しないことを前提にしています。

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作品の構造について

作品内にはレイヤーとして以下の3つがあります:

・俳優の台詞(この中にも2種類のレイヤーがあります)
・映像(この中にも2種類のレイヤーがあります)
・スーパーボール(蓄光で光るものと、通常の光らないもの)を用いた行為

1. 俳優の台詞

俳優の台詞のうち、1つ目のレイヤーは私のニューロダイバージェントの人(脳や神経のはたらき方が、社会における「ふつう」の基準、規範から外れたかたちの人)としての経験によるものです。俳優の一方はニューロティピカルの人(脳や神経のはたらき方が、社会における「ふつう」の基準、規範の中におさまっている人)で、もう一方は私に近いニューロダイバージェントの人です。その役はシーンによって入れ替わります。昔の私は話すことが苦手で(特に雑談)、相手に何を話しかければいいのかがわからない、相手の問いかけにもうまく答えられるものもあれば、答えられないものもありました(うまく答えられない方が多かったです)(現在は昔と比べるとましになったと認識しています)。そのような会話の短い断片的なシーンが延々と連続していきます。なお、これは自分のニューロダイバージェンス**の持つ1つの側面で、勿論他の側面もあります。私自身はAS(D)ですが、これはあくまで私自身のことや経験によるものなので、AS(D)の人がこうである、またすべてのニューロダイバージェントの人がこうであると一般化しないでください。

 台詞の2つ目のレイヤーは数字です。詳細は補遺に記述します。

2. 映像

【映像の2種類のレイヤーについて】

2種類ある映像のレイヤーのうち、1つ目のレイヤーの映像が投影されている時は、上記の1つ目のレイヤーの俳優の台詞が発せられます。2つ目のレイヤーの映像が投影されている時は、2つ目のレイヤーの台詞が発せられ、加えて、スーパーボールを用いた行為も行われます。

 

【1つ目のレイヤーの映像の種類と意図】

1つ目のレイヤーの映像は主に壁やフェンス、川を映したものが多いですが、それを映していないものも含めて映像にはマイノリティの属性としての私から感じるマジョリティへの壁や距離感を表すものと、日本におけるマイノリティ・周縁化された側の見えている・感じている、私が持つマジョリティの属性への壁・障壁や距離感を表すものがあります。目に見えるものもあれば、見えないものもあります。制度上・法律上存在する壁や距離感、都市開発や行政によって生じた壁や距離感もあります。そして、天皇制を基盤とした日本の帝国主義・植民地主義の歴史も関わっているものも勿論あります。その壁・障壁や距離感は抑圧や差別、排除、虐殺に繋がっています。

【自身の立場性について】
ニューロダイバージェントとしての私は日本という国においてマイノリティですが、一方でマジョリティ属性を多く持ち合わせています。マジョリティとしてマイノリティ——例えば、琉球、アイヌ、在日コリアン、在日外国人、女性、性的マイノリティ、(私とは異なる)「障がい」を「持つ」とされる人、高齢者、野宿者を構造的に、制度的に、あるいは規範的に抑圧・差別、排除している側でもあります。加えて、私には首都圏に住んでいるがゆえに享受できている特権があります。
 だからこそ、私は明確にあらゆる差別に、排外主義に、そして帝国主義や植民地主義に反対します。構造的差別の加害者側に立つことを拒否し、すべての人が人権を保障され、平等に生きられる世界を希求します。これは単なる理想ではなく、日々の実践を通じて追求すべき現実だと考えています。
 今回の作品で重要な起点となったモーデカイの概念を美学的なものにだけ還元してしまうと、その政治性が脱色されてしまう危険があります。そのため、日本の構造的差別(排外主義、帝国主義・植民地主義の歴史と現在)に触れる必要がありました。なお、映像撮影に関して倫理的に問題がある、アウティングになる、映すことで当事者に危険が及ぶ可能性があると考えられるものはあらかじめ除外しています。

 

2つ目のレイヤーの映像について】
2つ目のレイヤーの映像は主に真っ黒の画面が投影されますが、時折、作品のコンセプトに沿って作った詩の中の1つの行が映し出されます。日本語の行と英語の行がわずかに文字の重なりを伴って出てきますが、どちらか一方は薄く表示されます。詩の全文は補遺に記載します。

3. スーパーボールを用いた行為

スーパーボールは私が複数の属性(気づいているものもあれば気づいていないものもある)を持っていることと、社会や世界には複数の属性の人々がいる(公に気づいているものもあれば気づいていないものもある)ことを表現しています。加えて、作品中で俳優が行うスーパーボールを用いた行為は、台詞で表現される言語的コミュニケーションの困難さに対する、非言語的な応答の可能性を探っています。

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終わりに

この作品はあえて何も構成的なことはしないです。起承転結はありません。私の中にある複数の属性を通した複数の現実が様々なレイヤーによって提示されます。ただそれだけです。それが私の今いる・見えている日常です。
 モーデカイは「多様なる〈他者〉を実感できるこの感覚こそが、プリズム的知覚が寛容に包摂するものです」と、先で紹介した論文の中で述べています。複数性を認識し、生きることが、あらゆる抑圧や差別から解放された世界を想像し、創造する力であることを願います。
 その過程で私たちは、自分たちがどのような構造に関わり、何を支えているのかを、常に問い直す必要があります。政府、企業、文化機関、そして個人——すべてがより良い世界を作る責任と可能性を持っています。この作品が、その問い直しの小さなきっかけとなれば幸いです。

注釈

* 中村達の『私が諸島である カリブ海思想入門』によると、この概念は本質主義的であるネグリチュードへの批判や反省からデレック・ウォルコット(セントルシア出身の詩人、劇作家)やエドゥアール・グリッサン(Édouard Glissant、マルティニーク出身の作家、詩人、哲学者、文芸評論家)らカリブ海思想家たちが、植民地支配から生じた人種的・文化的混交を自分たちの主体性として決定的に捉えるべく依拠した概念です。また中村の同書では、バルバドス人歴史学者で詩人のカマウ・ブラスウェイト(Kamau Brathwaite)による、カリブ海におけるクレオライゼーションは、「文化変容」("acculturation")と「文化相互作用」("interculturation") という2種類の変化の過程からなるという考えを紹介しています。中村の同書によると、「文化変容」は支配的な文化が他の文化を飲み込み吸収するような文化間の一方的な力関係を意味しますが、「文化相互作用」は支配と被支配の関係はなく、互いが影響しあい、豊かな文化的土壌を作り出す関係を意味します。

**「ニューロダイバージェンス」は「ニューロダイバージェント」の状態のこと。AS(D)やADH(D)、Dyslexia、Dyspraxia、Dyscalculiaなどの生得的な例だけではなく、トラウマ、長期的な瞑想の実践、または幻覚剤の頻繁な使用などによって引き起こされる脳機能の変化といった経験を通じて生じる例もあります。
(参考)
https://neuroqueer.com/neurodiversity-terms-and-definitions/

https://www.health.harvard.edu/blog/what-is-neurodiversity-202111232645
https://www.helpguide.org/mental-health/wellbeing/being-neurodivergent

(一番目のURL先の日本語訳)

(翻訳)ニューロダイバーシティ:基本用語と定義(漢字ありの日本語) – わるいしせい ?

【補遺】
映像について

7月20日16時に下記URL先のページで公開予定。
https://takahirokuroda-composer.com/?page_id=1112

壁・障壁、距離感についての補足——撮影映像を通して
箇条書きですが、プログラムノートに書ききれなかったことを記します:

・排除アートや排除ベンチと呼ばれるものは野宿者以外にも移動や行動に制限を与え、変容させます。この作品では取り扱いませんでしたが、ヘイトスピーチもマイノリティの移動や行動を委縮させ、強制的に変えさせます。

・仮放免者は就労禁止、国民健康保険の加入不可、生活保護の受給禁止といった、国連から人権侵害の疑いが濃いとして改善を促す勧告が出されているほどの状況に置かれていますが、その人権侵害の中には居住地以外の都道府県への移動や引っ越しには、事前に入管の許可申請が必要という移動制限もあります。申請のために東京都へ向かう際に渡る多摩川や荒川、江戸川はその人にとって壁・障壁に見えるかもしれません。

・日本在住の外国ルーツを持つ人たちは永住権を持っていても、経済的にも社会と関わり、納税していても帰化しない限りは政治参加ができません(住民投票に関しては一部の自治体は条例で外国人の投票権を認めています)。但し、納税していなかったとしても、権利は保障されるべきです。それは「国籍」や、あるいは別の属性によって左右されるものではありません。

・今回の制作で改めて痛感したことですが、少なくとも関東に住んでいると、アイヌモシㇼ/北海道や琉球/沖縄に住んでいる先住民の権利が毀損されている現実は、見えにくいです。沖縄料理屋や博物館での文化・芸術の「展示」などで部分的にアイヌモシㇼ/北海道や琉球/沖縄を知る機会はありますが、むしろそのことによって彼ら/彼女らが今置かれている現実はぼかされ、それに目を向けるきっかけが少なくなっているのではないかと感じました。オスプレイ配備撤回と米軍普天間飛行場の閉鎖・撤去のデモ行進をした際に、浴びせられた汚い言葉より、沿道の無関心さがショックであったという、その当時那覇市長だった翁長雄志のエピソードを思い起こしましたが、当時と現在、無関心さは変わっていないように思えます。在日米軍に関しても、首都圏において、横田や座間、横須賀、赤坂といった基地や施設周辺の住民にとっては緊要な問題ですが、そうでない人にとっては日常の中では意識されていないかもしれません。米軍基地・施設は国際法上では占領ではないとされますが、日本側の主権が制限されているので、実態としては占領的です。成田空港利用者も、なぜ羽田以外に空港を造る必要があったのか、その理由を知らない人が多いかもしれないです。

・朝鮮半島への植民地主義の痕跡は、実は首都圏にも数多く存在しています。朝鮮人労働者がインフラ整備に従事させられた歴史、関東大震災での朝鮮人・中国人虐殺の現場は、今も私たちの日常風景の中にあります。追悼碑がある場所もあれば、いまだ設置されない場所、そして近年撤去されてしまった場所さえあります。見えているのに見えない、あるいは見ないことにされている歴史がここにもあります。私たちはそうした記憶を宿す景色の中を歩いています。関東大震災での虐殺は、朝鮮人・中国人だけでなく、琉球出身者、そして福田村事件のように「朝鮮人」と誤認された部落出身者も犠牲となりました。これは単なる「誤認」ではなく、あらゆる「他者」への暴力が解き放たれた瞬間でした。

・壁・障壁や距離感を考えるにあたって、アパルトヘイト・ウォールの存在は常に頭の中にありました。それは、単に物理的に分断する壁だけではありません。移動を制限し、土地収奪し、生活を分断する制度的な壁であり、パレスチナ人の心に恐怖や絶望、無力感を植え付け、またイスラエル社会の多数派が壁の向こうのパレスチナ人への関心を持たないようにすることで、パレスチナ人の非人間化を促す心理的な壁であり、そしてそれを黙認する国際社会の沈黙という壁でもあります。パレスチナ人をガザ地区、西岸地区、イスラエル国内、そして周辺国の難民キャンプといった地域へと、さらには世界中に広がるディアスポラへと分断する包括的なシステム・象徴です。それへの考えを巡らせることは、朝鮮半島を分断し、そのコミュニティを分断している一因である日本の植民地主義・帝国主義の歴史に立ち返ることになり、加えて日本社会の中にある壁・障壁や距離感を再び直視することになります。
 

数字の台詞について
数字の台詞は、「障がい」を「持つ」とされる人が抑圧され、差別され、暴行を受け、殺戮された事件・事例、あるいはそれに関係する出来事の年号です。自分にとっては特に他人ごとではないと感じています。年号と事件・事例名(括弧内に国名もしくは地名)を以下に列記します:

・2016:相模原障害者施設殺傷事件(日本)
・1948:旧優生保護法の制定(日本)
・1933:遺伝病子孫防止法(ドイツ)
・1939:T4作戦(ドイツ)
・2016:Death of Abdirahman Abdi(カナダ)
・1922:アメリカの優生学者ハリー・ラフリン(Harry Hamilton Laughlin)が「モデル優生断種法」を考案(アメリカ合衆国)
・2025:Death of Victor Perez(アメリカ合衆国)
・2020:Killing of Eyad al-Hallaq(東エルサレム)
・2023:”Londonderry: Autistic boy punched and kicked in sectarian attack”( https://www.bbc.com/news/uk-northern-ireland-65763232、イギリス)
・1907:インディアナ州断種法の制定(アメリカ合衆国)
・2024:Killing of Mohammad Bhar(ガザ地区)
・1928:アルバータ州で性的不妊手術法が制定(カナダ)
・1936:エガス・モニスのロイトコミー手術(1935年)をウォルター・フリーマンが改良し、ロボトミー手術を開発(アメリカ合衆国)
・1983:宇都宮病院事件(日本)
・1977:第6回世界精神医学会議(WPA)「ハワイ宣言」を採択

 

 当然ですが、上記のものが事件・事例、出来事のすべてではありません。必ずしも「障がい」だけが理由ではなく、レイシズムや宗教、占領、アパルトヘイト、植民地主義などの複合的な要素によるものもあります。それは見逃してはいけない、忘れてはならないことです。過去に終わったものだけではなく、今現在まで繰り返されていることです。

詩について
作品コンセプトに沿ってまず日本語での詩を作り、次いで英語版を作りました。全文を以下に載せます。

-日本語版- わたしはいる わたしは見る 放たれたもの 漂うもの 滲み出たもの 少しでも 通過する わたしの中を 反射する 屈折する 流動する 揺らいでいる 重なり合う わたしとわたし 立っている場所 通過する 目の前で 重なり合う それらは見る 交差して 重なり合う それとそれ そこにいる そこに在る 通過する それらの中

-英語版- there i am here i see things released things adrift things seeping just a little passing through within me reflecting refracting fluxing swaying overlapping myself with myself the place standing passing through before eyes overlapping here they see intersecting overlapping each with each being there existing there passing through through them

 

「遠心的」かつ「求心的」な循環

 コンセプトの起点の項で紹介した、モーデカイの論文におけるウォルコットの『Another Life』の分析の中で印象的な一節の一つが下記のものでした(日本語訳は私によるものです)。

Much of what these metaphors seem to be saying echoes Aimé Césaire's notion of black culture as having an absorptive, accretive quality and recalls Senghor's characterization of the movement of cognitive processes as circular — "centrifugal" and "centripetal."  [Pamela Mordecai, “‘A Crystal of Ambiguities’: Metaphors for Creativity and the Art of Writing in Derek Walcott's Another Life,” World Literature Written in English, Volume 27, No. 1 (1987): p.103]

これらのメタファーが示唆していると思われることの多くは、黒人文化は吸収的かつ蓄積的な性質を持つというエメ・セゼールの考えと重なり、また、認知過程の動きを「遠心的」かつ「求心的」な循環として特徴づけたサンゴールの考えを想起させます。

 ここで書かれていることも、今回の作品に特に影響を与えています。

作品化できなかったことへの反省点
 本作では、制作期間の制約や調査・研究の不足から、以下の視点への深い踏み込みが不足していたと自覚しています。

 

・階級格差の可視化:
労働者階級や非大卒者と、エリート・資本家・大企業・主要メディア・政治家、そして中産階級との間に横たわる情報・資源アクセスの不均衡、経済的・文化的な壁を、作品内で十分に扱えませんでした。この階級構造は、社会における他の多くの差別と深く結びついています。

 

・中道/リベラルの構造的加担:
「中道」「リベラル」とされる立場が無自覚のうちに、あるいは見て見ぬふりをすることで、差別構造や階級構造を維持・再生産している問題については、今回の表現には盛り込めていません。穏健さを装った発言が、いかにして現状を追認し、変革を阻む「見えない壁」として機能するのか。

 

・自己の二重的立ち位置:
アーティストとして経済的には不安定ながら、文化的・社会的資本を一定有している自らの曖昧な階級的位置――“境界を揺らす/維持する”両方の立場を同時に生きる自覚――を、言葉として明示できませんでした。


 これらは、作品の主題である「複数性」や「プリズム的 -意識、 -ヴィジョン」のさらなる深化に不可欠な視点です。これらの視点の欠如、あるいは扱いきれなかった問題群を明記することで、次なる問いへの出発点としたいと思います。

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